丹光は瞑想で簡単に視えるものではありません

 丹光はヨーガで言う瞑想などで簡単に※視えるものではありません。丹光は気のエネルギーの蓄積が充分であり、その気のエネルギーが凝縮されていく過程で視えてきます。

 よく勘違いされている方多いのですが、単に瞑目したり、ヨーガで瞑想が深くなったからと言って視えるものではありません。また、視神経の働きやスパークなどを丹光と勘違いされているケースも多々あります。

 上記の様な解釈での丹光(疑似体験に過ぎません。)が見えることで、チャクラが開いたとか、チャクラの働きが活発成ったなどと言った考え方は大きな間違いです。瞑想で見える光は瞑想初期の段階で起こる生理現象に過ぎないです。

 随分前からあやふやな情報が出回り、事実を探求すること方法を遠ざけています。実際に丹光が視えていないにかかわらず、スピリチュアルセミナーに誘導するために使われたりしています。

 むしろ、何も開発されていない状態で、ヨーガでもチャクラが覚醒したと喜んでも、超常能力が開発されている訳ではないのです。チャクラが覚醒している訳でもありません。

 丹光を目を閉じた際にまぶたの裏側で見える光と定義している方もいますが、目を閉じた時に見えるのは丹光ではありません。単なる視神経の働きに過ぎないのです。

 そして、丹光はヨーガではなく、気功に於ける用語です。ヨーガで使われることそのものがおかしいのです。

 本来の丹光はまた、開目している状態でも視ることができます。気のエネルギーを視る能力が開発された方に視える光です。それは凝縮された気のエネルギーが発する光です。

 よって、気のエネルギーが集まらず、凝縮されていない状態では丹光が発生することはありません。内気功で小周天などの修習を継続的に行って初めて視ることができる様になります。

※見えるとは単に目で見ている状態を言いますが、視えるとは霊視をしている状態を言います。間違った情報を信じ込まないで。